INTERVIEW

工夫がはぐくむ知恵、そして文化。
歴史博物館館長が語る、「森といきてきた伊那市」
2025年、「森といきる 伊那市」をブランドスローガンに掲げ、循環と継承を志向する持続可能なまちづくりをさらに前進させた伊那市。
じつはこの地域でははるか昔から、自然の恵みを余すことなく生かしながら、手を取り合い、連綿と命をつないできた人々の営みがありました。
「人の知恵と工夫によって、よりよく生きることをめざし、歩んできたのが伊那市の歴史では」
そう語る伊那市立高遠歴史博物館館長・塚田博之さんとともに、森といきてきた伊那市の歴史を振り返ります。
森と水のあるところに人が集った
──今日は歴史の専門家である塚田館長に、森といきてきた伊那市の歩みを教えていただければと思います。一番古い、人の暮らしの痕跡というと、やはり縄文時代でしょうか。
塚田博之館長(以下、塚田) そうですね。伊那谷だけじゃなく、諏訪や八ヶ岳山麓も含む一帯は、縄文における今で言えば東京のような日本の中心地、人口密集地でした。その理由こそ、縄文時代の人々は森にいかされていたからではないかと考えられます。
──縄文人からすでに、森といきていたのですね。
塚田 もちろん、確証ではなく遺跡などから推察するしかありませんが、狩猟採集のなかでは木の実などの食糧をもたらしてくれる豊かな森は生きるうえで欠かせなかったのではと想像します。山の奥深くで暮らしていたというよりは、山すそから川につながるような平らな場所に暮らしていたのではないでしょうか。
伊那市の縄文遺跡として有名な場所のひとつ、富県地区の「御殿場遺跡」などはまさに「山すそから続く平(たいら)」ですが、そのような場所で動物を狩り、植物を採取していたのではないでしょうか。森があり、平らがあって、水がある。縄文の人々はそのような環境を暮らしやすい場所として選んだのでしょう。

高遠歴史博物館に掲示された、縄文時代の伊那市の想像図
森が地域の財産だった江戸時代〜
伊沢氏が「学校林」に込めた思いとは
──その後、定住化が進んでいった後の伊那市エリアにはどのような特徴がありますか。
塚田 奈良時代や平安時代は資料が乏しいため本当に限られた情報しかわからないのですが、やはりここは交通的にさまざまな地域を結ぶ谷なので、人々が暮らすだけでなく、行き交う場所であったはずです。
──高遠に最初に築城されたのは、14世紀以降と言われていますね。この場所に城が作られた理由としても、山や森のある地形がありそうです。
塚田 「舌状台地」と呼ばれる、山を背負い三峰川と藤沢川に挟まれた河岸段丘の地形が敵からの防衛に優れていたとされるのが、高遠城です。最初に築城したのは14世紀に栄えた諏訪氏の一族である高遠氏だと言われています。その後、武田信玄が山本勘助に曲輪などの改築を命じて使い続けたのは、ここが諏訪と伊那をつなぐ交通の要衝であり、遠江・三河進出の軍事拠点だと考えたからにほかなりません。
さらに武田も倒れ、戦国時代から江戸時代になって、保科氏が初代の藩主としてこの地に入ったあとも、別の場所に城を作り直すことはせず、ずっとこの高遠城を拠点とします。ただこれについては、防衛的目線だけでなく、「森」が関わっていたとも考えられます。
──保科氏にとっての森とは、どのような存在だったのでしょう。
塚田 端的にいえば「財産」です。木を切り出して販売していましたし、この地では幕府に「榑木(くれき)」と呼ばれる材を年貢として収めていました。
──年貢というと、お米などのイメージがありますが、ここでは木材だった。
塚田 はい。森は豊かでしたが、逆に言うと米などが育ちにくい山がちで冷涼な土地も多かったため、石高はわずか3万3000石あまり。そこで高遠藩は、適当な規格に切り揃えた木材をいかだで流し、幕府に納めていたそうです。そもそも城ひとつつくるにしても、木材はいま以上に大切な財産でしたから、豊富な山林がある高遠藩はこれを売って、藩の財政を支えていました。
もちろん当時は、木にまつわる多様な仕事もありました。木を伐り出して材木にする木師(きし)、桶をつくる桶師など、さまざまな木の道具をつくるひとがいて、藩の指示を受けて木師を取りまとめる「木改役(きあらためやく)」などと呼ばれた役職もありました。森の中にたくさんの仕事と暮らしがあった時代ですね。

森の仕事に使われてきた道具と塚田館長
塚田 江戸時代には留山(とめやま)制度といって山林や水源地を保護するしくみがありましたが、明治になって鉄道建設や製糸業の発展で木材がどんどん伐採されるようになった結果、地域の山は土砂の流失による山崩れに見舞われるなどといった山の荒廃が生じるようになっていったんです。
──なんと、森林の循環が絶たれてしまう危機があったのですね。
塚田 はい。こうした問題をよく知っていたのが、和歌山、愛媛、新潟各県の県知事を勤めた高遠出身の政治家・伊沢多喜男なんです。東京芸術大学音楽学部(当時は東京音楽学校)の初代学長を勤めた伊沢修二氏の弟ですが、彼は全国で活躍しながら故郷への思いが深く、昭和14年から17年にかけて伊那市内各地の学校に「学校林」を寄贈します。
学校林の寄贈は、防災にも地域振興にも欠かせない森という存在について、実際に触れて学ぶことでその大切さを伝えようとした伊沢の強い想いの現れにほかなりません。教育県・信州の原点とも言われる、高遠藩の藩校 進徳館(しんとくかん)が重視した「実用の学」に通じるものがありますね。いのちの礎となる森へのまなざしは、こうした偉大な先人たちの存在もあって受け継がれ、いまも息づいているのだと思います。
足元を見直せば、
私たちはもっと「森といきて」いける
──森といきてきた伊那市の歴史を駆け足で振り返っていただきましたが、塚田さんはこの地域のあゆみについて、どうお感じになりましたか。
塚田 森という目線でこの地域の長い歴史を振り返ってみて改めて、先人たちはこの土地の足元にある宝をよく知り、時代ごとに余すことなく生かしてきたのだと感じました。
森という目線でこの地域の長い歴史を振り返ってみて改めて、先人たちはこの土地の足元にある宝をよく知り、時代ごとに余すことなく生かしてきたのだと感じました。
たとえば、森や山の恵みとひと口にいっても、実を採集するところからはじまり、木を財産として納めた時代があり、近年は再び県産材としての活用にも注目が集まっています。かつては人が飲むだけだった水も、水路が引かれて農業用水となり、また電源開発として水力発電のエネルギーを生み出すようになって、60年の歳月が経ちました。また、山の恵みといえば、江戸時代から明治時代にかけては芝平という地域では石灰岩が採掘され、土壌改良剤や白壁の材料として販売されてもいたんです。
──たしかに、同じ資源でも時代が進むほどに多様に生かされていったんですね。
塚田 そうですよね。米や石炭などの広く流通していた富は豊富ではなかったかもしれませんが、だからこそ人々はよりよい暮らしを求めて、知恵と工夫を重ねていきました。そうしたたゆまざる努力の積み重ねが、伊那市の歴史を支えてきた底力であり、強みとなっているのではないでしょうか。

──そうした伊那市のありようを知るほどに、「森といきる 伊那市」のスローガンが生まれた理由が理解できるような気がします。
塚田 今回のスローガンをお聞きして、たしかに伊那市には森といきてきた歴史がありますし、いま一度見方を変えてみれば私たちの足元にはまだまだ森といきていける、活かせるものが眠っているかもしれない、と感じました。また、そんな森のありように、私たち人の在り方として学べることも多いのかもしれない、とも思い至ることができました。
足元の豊かさを知り、生かしきる。そして人と人とのつながりもまた、循環のなかで支え合う森に学び直していく。そうした、内なる強さを育みながら世界と向き合うまちづくりは、先の見えない時代を生きていく安心感を私たちにもたらし得るのではないでしょうか。

つかだ・ひろゆき
長野県長野市生まれ。県立歴史館専門主事、高遠中学校教頭、富県小学校校長等を務めたのち、高遠歴史博物館館長に。長野県の近代史に造詣が深く、伊那市でも郷土史について現場に足を運びフィールドワークを積極的に実施。旧陸軍伊那飛行場の記録など、知られざる歴史に光をあて、新たな発見をもたらしてきた。